鶴千代クラブ学習会 第20回「上迫城・下迫城と儀俄氏」

2月16日(日)、今年度最終の鶴千代クラブ学習会が開かれました。

第20回(今年度第5回)の学習会テーマは「上迫(かみはざま)城・下迫(しもはざま)城と儀俄(ぎが)氏」です。

講師は日野町教育委員会の振角卓哉先生にお願いしました。

今回、町内の中学生メンバーが部活などの用事で参加者がありませんでしたが、愛知県からのメンバーが遠路参加してくれました。

また、広報部理事の呼びかけで、地元の方などが多数参加いただき、賑やかな会になりました。

日野町上迫に伝わる「姫塚」の前で。


午前中は、林業センターで「儀俄氏」を中心にした、藤原秀郷(俵の藤太)から蒲生貞秀までの時代、日野と甲賀あたりを支配していた人は誰かということをくわしく説明していただきました。

地元の方々にも多数参加いただき16名の参加になりました。

講師の振角卓哉先生

 冒頭で、振角先生が「儀俄氏が本来の蒲生氏です」と言われて、「儀俄氏は蒲生家の支流の一つ」と思っていた者にとっては大きな驚きでした。

初めて耳にする地元の歴史もあり、皆さん真剣に聞いておられました。


 午後は迫地区に移動し、下迫城跡・上迫城跡を見学しました。

どちらの城跡も地元の方々によって、主要部分はたいへん歩きやすく整備しておいてくださいます。

奥深い所は竹の侵食によって荒れている部分もありますが、地元の城を守ろうという方々の熱意には頭が下がります。

振角先生作成の概要図を手に、一つ一つの曲輪・土塁・堀切などを丁寧に案内していただきました。

探検装備の振角先生


下迫城は、儀俄氏の家臣三木氏の砦ということですが、規模もかなり大きく、1461年には幕府の命令を受けた蒲生貞秀に攻撃されていますが、これを撃退しています。

実際に歩いてみるとたいへん急な切岸や、高い土塁などが見られ、貞秀勢の攻撃をはねつけたのも納得できる城の造りでした。

下迫城の土塁を望む。

地元の方々によって主要部分は登りやすく整備されています。


振角先生が作成された城跡の地図

高さ10mの下迫城西側の土塁。

下迫城の土塁から集落を望む


 上迫城は、蒲生郡史に「儀俄氏城趾」と記されています。方形に近い曲輪を持ち、その背後を土塁と堀切によって守っています。

また、この城館と谷をはさんで、もう一つの城館が築かれており、これは甲賀の城館とよく似た特徴であるということです。

最後に、上迫城落城のときの伝説にもとづいて建てられた「姫塚」を見学して、学習会を終えました。

上迫城趾の説明。儀俄氏城趾とも呼ばれます。

本城と谷をはさんでもう一つの城館が築かれています。

上迫城登り口

本城の曲輪

上迫城落城の際の伝説「姫塚」


~学習会、その後の大ニュース~

学習会が終わってから、地元の堀さんの案内で、下迫城から集落をはさんだ向かいの山中に

城の痕跡と思われるものがあるというので、参加者有志で向かいました。

登ってみると、確かに土塁と思われるものやそれに囲まれた曲輪様の平らな名部分などがあります。振角先生も断言はされませんが、「城趾でないと言い切る根拠がない」とおおむね認めたという雰囲気。後日調査に入られるとのことです。

日野にまた新しく城跡が加わりそうです。

(文:若林 編集:吉岡)

新しい城跡の発見か!?場所はまだ秘密です。

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