会員研修会報告「蒲生忠知公 松山ゆかりの地をめぐる旅」
2月13日14日、蒲生氏郷公顕彰会研修会を実施しました。今年度の研修は蒲生忠知(ただちか)公(1604~1634)の足跡を辿って愛媛県松山市への旅となりました。
奥田会長、堀江日野町長をはじめ蒲生氏郷公顕彰会会員、日野町政策参与の東氏14名(現地合流1名)もの参加者があり、賑やかな旅になりました。
「忠知」は氏郷の孫にあたり、父秀行、兄忠郷が若くして亡くなったあと、松山20万石、日野4万石の大名として蒲生家を継ぎました。
しかし、30歳という年で病没し、世継ぎがいなかったということで蒲生家は残念ながら断絶となりました。
氏郷公の孫である忠知公の足跡をたどる研修会のレポート詳細はこちら→https://ujisato-kensyokai-hino.amebaownd.com/posts/56370995
【2月13日(木)】
バスは7時30分に日野を出発し、午後3時20分頃に松山の正宋寺(しょうじゅうじ)境内にある「子規堂」に到着。
俳人 正岡子規ゆかりの文物にふれることができました。
正宋寺境内に建つ「子規堂」
子規が17歳まで暮らした家が復元されています。
子規の直筆原稿や遺墨・遺品が展示されています。
子規の埋髪塔
そこからほど近い興聖寺(こうしょうじ)(臨済宗妙心寺派)まで歩いて移動。
聖徳太子が道後に来られた時に始まるという寺院で、赤穂義士の寺としても知られていますが、寛永4年(1627年)加藤嘉明の次に松山藩主となった蒲生忠知が再興して菩提寺としました。
ここには、安永7年(1778年)蒲生家遺臣の9名が建立した供養費があります。
お参りすると、昭和の時代に作られた当時の蒲生家遺臣の名を刻んだ石柱が碑の周りをぐるりと囲んでありました。
現代に至るまで、蒲生家遺臣として忠知公を供養されている方がこの松山に大勢おられることに一同感激しました。
忠知公の評価は、松山で善政を施した名君であるという評価と、細川家文書や地元に伝わる悪評とに2分されます。ご住職のお話では、蒲生家遺臣の末裔の方の法要も行われ、日野に来られた方もあるという事で忠知公に対する追慕の念が強い事が分かりました。
一同、名君 忠知公の顕彰にさらなる研鑽を積んでゆく気持ちを新たにすることができました。
大林寺から移転して蒲生家の霊碑を祀った興聖寺
「松山城主 蒲生忠知公墓所」とあります。
「江戸時代には氏郷公以来の信仰の対象であった「青面金剛王像」が安置されていたと云われている。」とあります。
赤穂浪士、木村岡右衛門と大高源五(子葉)の供養塔が建立されています。
蒲生忠知公の供養塔
1778年(安永7年)蒲生家遺臣の子孫9名が供養塔を建立した、とあります。
蒲生忠知公供養塔の前で。
【2月14日(金)】
2日目の研修は道後温泉を少し下った「湯築城跡」の見学から始まりました。
訪ねるまではメンバーの多くがあまり知らなかった城ですが、伊予国守護河野氏の居城であったこの城は日本百名城にも認定されており、たいへん見応えのあるものでした。
資料館の中で、館長さんから城の歴史や特徴などについてくわしく説明していただき、その後城跡の中の主要部分を案内してもらいました。
しっかり残っている土塁。それを一部断ち切って土塁の構造や築造過程がわかる断面が展示された部分はたいへんめずらしいものでした。
武家屋敷跡には、発掘の成果を元に再現された屋敷が2棟並び、庭の一角には温泉が湧いていたのではないかと推定される穴もありました。
伊予国守護 河野氏 の居城「湯築城址」
国史跡、日本100名城にも指定されています。
道後公園として親しまれています。
保存状態の良い土塁の前で。
城郭に詳しい福永理事による説明
湯築城資料館
佑月城ガイドさんに案内していただきました。
土塁を一部断ち切って構造や築造過程がわかる断面が展示されています。
資料館の視聴覚コーナー 湯築城の歴史を学ぶことが出来ます。
内堀にある特徴的な岩場
次に訪れたのは松山城。現存12天守の一つとして知られる城ですが、今の天守は江戸時代後期に松平氏により建てられたものですが、はじめにあった五重天守は初代の加藤氏ではなく、2代目の蒲生忠知によって建てられたという説が有力になってきているとのことです。
また、忠知は山の下にある二の丸の御殿を造り上げたのですが、今回は時間もあまりないのでそちらを見学することはできませんでした。
小天守と大天守を持つ連立式天守
創建当初は五重だったとされる天守は蒲生忠知公が建てたという説が有力になってきました。
本丸の巽櫓(たつみやぐら)
太鼓櫓
天守より本丸を望む
西側 松山港を望む
北側 瀬戸内海を望む
蒲生家家紋 左三つ巴の陣旗
松山城のキャラクター「よしあきくん」と記念撮影
研修の最後は、今回のメインともいうべき浄土宗 大林寺にある忠知公のお墓参りです。
忠知公が創建した寺院「見樹院」を、後に入った松平定行が名前を「大林寺」と改めました。
このお寺は、松山藩主の菩提寺として広大な敷地と大伽藍や多くの藩主御霊屋を有していましたが、太平洋戦争の空襲によって、すべて消失してしまったとのことです。
現在は近代的な様式の本堂として再興。歴代藩主や、かつて末寺の檀家であった方々をお祀りされています。
お墓参りだけの予定でしたが、本堂にまであげて頂き、唯一戦火を免れたご本尊とお位牌の前でご住職の説明を聞きご焼香をさせて頂くことができました。
歴代藩主やかつて末寺の檀家であった方々のご位牌を拝見させていただきました。
ご本尊と忠知公のご位牌の前でご住職の説明を聞き、ご焼香させていただきました。
次に、蒲生家遺臣の末裔の方が建立した忠知公の墓前で全員でお線香を上げさせていただきました。黄梅院のご住職、小林大玄師に書いて頂いた弔辞を堀江町長が代読し、忠知公の墓前に捧げることができました。
蒲生家遺臣の末裔の方が建立した忠知公のお墓
全員でお線香を上げさせていただきました。
京都大徳寺黄梅院和尚より預かった弔辞を読み上げる堀江町長
大林寺の云われ。忠知公が兄 忠郷公のために創建されました。
今回の研修の中で、松山市の中でもご住職を始め、今でも蒲生家を弔っておられる方々が今の時代にも残っておられることを知ることができました。
また、松山の特産品に緋の蕪漬(ひのかぶらづけ)というのがあり、これは忠知公が日野菜を持ちこまれ、それを改良したものだろうということ、これも多くのメンバーにとっては初めて知ることでした。
このように、日野と松山の縁は現在でも切れずに残っています。
2027年は忠知公松山入部400年の年、日野と松山で法要が出来ればとの思いを持つと共に、今後、蒲生家や緋の蕪漬と日野菜などをきっかけにして、日野と松山の交流が生まれていくと良いなと思わされる旅でした。
研修団一行は、午後7時30分頃に無事日野に到着。安田教育長に出迎えていただき解散となりました。今回の研修を機に、新たな地に顕彰の輪を広げ、研鑽を積んでまいります。
(文:若林正秀 福永保 編集:吉岡)
参考画像:忠知公が松山に伝えた「緋の蕪漬け(ひのかぶらづけ)」写真出典:農林水産省ウェブサイト(https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/hino_kabura_zuke_ehime.html)
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