氏郷ゆかりの地

蒲生氏郷公銅像 日野町上野田ひばり野公園

初代の銅像は大正8年に建立されましたが太平洋戦争時に金属供出され、現在の銅像は再建されたものです。

 秀吉の命で会津から九州へ向かう途中、中山道武佐宿あたりから遥かにふる里のわたむき山を眺め、有名な望郷の歌を詠みました。像はこの時の姿をイメージしています。

思いきや 人のゆくえぞ 定めなき 
わがふる里を よそに見んとは


蒲生氏郷公銅像

彫像作者 山口栄太郎

鋳造 ㈱金井工芸鋳造所


信楽院 日野町村井呉服町

 正式の名を佛智山信楽院大松寺と言い、蒲生家代々の菩提寺です。

 氏郷公が松阪へ転封の後 寺院は荒廃しましたが、氏郷公の祖父定秀公の隠居場所があった現在地に再興されました。

 氏郷公初陣の鎧兜の断片・陣太鼓・氏郷公の納骨地蔵ほか蒲生家累代の遺品が残っています。

 境内には氏郷公の供養塔があります。

  また、本堂には、日野町出身の画家 高田敬輔の筆になる龍の天井画があります。

参道

山門

彫刻欄間

高田敬輔 信楽院天井画 雲龍図 


馬見岡綿向神社 日野町村井

 1200年の歴史がある神社で、蒲生上郡の総氏神として蒲生氏歴代の信仰も厚く社殿などを寄進しています。氏郷公が生まれたとき祖父の定秀公はこれを喜んで、みずから祭礼の渡御に参列した図が絵馬堂に掛かっています。

 この神社一帯は昔「若松の森」であったと言われ、氏郷公はこれにちなんで転封先を「松坂」「若松」と命名しています。

境内

本殿

拝殿

絵馬堂

綿向山の神の使い

 綿向神社の社伝によれば、欽明天皇(545年)6月4日、蒲生稲置三麿と山部連羽咋が綿向山に狩りに来ていた時、新暦では夏にあたるこの時期に季節はずれの大雪が降りました。二人は岩陰でしばらく休んでいましたが、雪が止んだため外に出てみると、そこには大きな猪の足跡がありました。二人はそれに導かれるまま山頂まで登っていくと、綿向山の神の化身と白髭の老人の元へと辿り着き。「この山頂に祠を建てて祀るように」と御告げを受けたと言われています。そのため、猪は綿向山の神の使いとされています。

伝 若松の森 址

 天正18年(1590年)、蒲生氏郷が会津黒川城主に封じられた時、黒川の名を故郷日野城の近くにあった若松の森の名にちなんで、会津黒川を会津若松の名称に改めたと伝えられます。その若松の森とは、ここ綿向神社の参道を覆っていた森であったと云われています。

 古書によれば、江戸時代の中期に多くの松が枯れ、伐り除かれて人家が建ったと書かれている。現在の松樹は名将氏郷が遠く会津の地より故郷を懐かしんだ名残りの松である。