日野の城

滋賀県には約1300の城があり、日野には30あまりが伝えられています。これらの城は主に戦国時代に、蒲生氏や小倉氏によって築かれました。


音羽城址

音羽城址 登り口

本丸 二の丸跡

東屋、遊具などが設置され憩いの場となっています。

音羽城址現状図

手作りの標識が充実しています。

音羽城築城主 蒲生貞秀(さだひで)

(氏郷のお父さんのお父さんのお父さんのお父さん)

文安元年(1444)頃~永正11年(1514)3月5日

 1455年、蒲生秀綱が急逝し、蒲生家に跡継ぎ問題が起こった。その時、秀綱の実弟で和田氏を継いでいた和田政秀の12歳の子を蒲生家の跡継ぎとして迎えた。この男子がのちに蒲生家中興の祖と言われた貞秀である。

 そののち貞秀は、実家の和田氏や佐久良(日野町)の小倉氏、幕府重鎮の伊勢貞親の後ろ盾を得て、日野から湖東地域にまで影響力を広げた。

応仁の乱では、幕府が支持する東軍型として、西軍に属する六角氏と各地で戦った。

 また、この頃(応仁・文明年間1467~1486)に音羽城を築城し、城主となっている。その後六角氏が近江守護に復帰すると、蒲生氏も南近江の勢力として、次第に六角方としての動きを見せるようになった。

 明応4年(1495)貞秀は52歳で出家。長男秀行に家督を譲り智閑と号する。

永正11年(1514)死去。享年71歳。

 音羽城付近で日野菜を発見し、後の日野町の名産となった「日野菜漬け」を初めて開発した人物としても有名である。

日野町の名産 日野菜


中野城(日野城)

  氏郷公の祖父定秀公が築いた城で、この時城下町を作ったと言われています。今に残る日野の町割りはその姿をとどめています。当時は本格的な城下町があまり無かった時代で、大変先進的な事でした。

 本能寺の変で信長の家族を避難させたのはこの城です。

 城の大部分は失われていますが、氏郷公産湯の井戸や土塁・内堀の一部は残っています。


佐久良城址

 佐久良城は室町時代(1338~1573)に桜谷一帯を領していた小倉氏の本城でした。周囲を堅牢な土塁で囲んだ本丸跡には庭園があり、典型的な中世城郭とされています。堀切跡や大手門と搦手門の虎口跡、帯曲輪、堀を縦に掘った竪堀などの遺構が完全な姿で残っており、城郭の全貌をよく知ることができます。


鎌掛城址

 鎌掛城(かいがけじょう)は蒲生氏の本城であった「音羽城」の支城として、南北朝期に造られたと伝えられています。日野町に造られた城の中でも最も高く険しい場所に造られた山城で、「城山(373.8m)」山頂から伸びる尾根(東西約400m)、南北約250m)に、約20カ所の曲輪を設けています。一部には岩盤を削って造った土塁が残るものもあり、谷間には石を積み上げて造った井戸(直径約3.5m、深さ約5m)を見ることができます。

 一方、麓には「山屋敷」と呼ばれる堀と土塁で厳重に守られた広大な館の跡(東西約70m、南北約180m)が残り、石組みで区画された屋敷跡などを見ることができます。

 鎌掛城は近江における蒲生氏が直接関係する城郭の中で唯一の山城であり、山城と山麓の遺構が明確で、しかも遺構が良好な状態で残っている貴重な遺構なのです。