蒲生氏郷公とは

蒲生氏郷 1556~1595 安土桃山時代

紙本著色蒲生氏郷像(西光寺蔵 写真提供:福島県立博物館)



誕生

 氏郷公は今から460年ほど前の1556年に日野の中野城(日野城)で蒲生賢秀の子として生まれ、幼名を「鶴千代」と言います。13歳の時に織田信長の岐阜城へ人質に出されました。


氏郷公産湯の井戸

氏郷の奥方は信長の娘

 氏郷公の才能を見込んだ信長は、元服させ自分の娘 冬姫 と結婚させて日野へ帰らせました。

 「忠三郎賦秀」と名乗った氏郷公は、信長のもとで各地の戦いで常に輝かしい働きをしました。


蒲生氏は日野6万石、128郷

 当時の勢力範囲は、現在の日野町・旧蒲生町のほぼ全部と東近江市の旧玉緒村・旧市原村に及ぶ広大な地域でした。


本能寺の変では織田信長の家族をかくまいました

 天正10年(1582年)本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれると、明智勢の攻撃に備えて安土城にいた信長の家族を日野の中野城に迎えかくまいました。


松阪城主

 信長亡き後は豊臣秀吉につき、伊勢平定に目覚ましい功績をあげました。天正12年(1584年)この功績により秀吉から松ヶ島12万石を与えられ、先祖代々親しんできた故郷・日野を離れることになります。

 伊勢に移った氏郷公は新しい城を築いて城下町を作り、日野の若松の森にちなんで「松坂」と名付けました。新しい城下町には、日野からも商人が移ってゆき、たいそう賑わいました。

 豊臣軍団の中でも蒲生軍勢の武勇は次第に人々の間で認められるようになりました。また秀吉から羽柴の姓を賜り、名を「羽柴氏郷」と改めました。

松坂城跡

松坂城は天正16年(1588)氏郷公によって築かれました。

会津若松城主

 天正18年(1590年)秀吉の小田原城攻めなどの戦で功を立て、それまで伊達政宗の領地であった会津黒川をもらい、さらに領地を移ることになりました。

 ここでも氏郷公は新しく城を築き、生まれ故郷の森の名前から地名を「会津若松」と改めました。

 また城下町を整備して産業の育成発展に力を尽くしました。様々な上方の文化を導入し、有名な会津塗も日野椀の技術が元になっていると言われています。

 会津は92万石で関東の徳川、中国の毛利に次ぐ天下3番目の大大名となりました。


会津若松城

別名「鶴ヶ城」は氏郷公の幼名「鶴千代」から名付けられました。


わずか40才の若さで亡くなりました

 秀吉が朝鮮侵攻の野望をいだき、氏郷公も九州まで出陣しましたがこのとき病に倒れ、文禄4年(1595年)2月7日惜しまれながら京都屋敷で亡くなりました。

 有名な辞世の歌を詠んでいます。


限りあれば 吹かねど花は 散るものを
心みじかき 春の山風


 関ケ原の戦まであと5年、氏郷公がもう少し長生きしていれば歴史が変わったかもしれないと言われています。

 亡きがらは京都・大徳寺昌林院(現在の黄梅院)に葬られました。法名は「昌林院殿前参議高岩忠公大禅定門」


文武両道にすぐれた武将

 蒲生軍は戦に強いだけでなく規律の正しい事も有名で、行軍中住民に対し略奪をしたり迷惑をかけたりしませんでした。

 また詩歌の面では望郷の歌、辞世の歌などすぐれた歌が残っています。

 茶の湯では千利休の筆頭弟子にあげられ、利休が秀吉の逆鱗に触れ切腹させられたとき、その養子 少庵を会津若松の城にかくまい、今に続く千家の元を作ったと言われています。


氏郷公が茶の湯に使ったといわれる「若草の清水」

町づくりにすぐれた政治家

 日野では早くから楽市楽座を開き、町の活性化に努めました。

 松阪や会津若松でもいち早く城下町を整備して商業を盛んにし、地場産業の育成に努め活気のある町にしました。


日野商人像

キリシタン大名

 早くから洗礼を受け、「レオン」と名のる敬けんなクリスチャンでした。

 秀吉のキリシタン禁制の下でも領民にキリスト教の教えをひろめ、また先進的な南蛮文化にも興味を抱き、その文化を導入しました。