鶴千代クラブ学習会 第22回「日野鉄砲と蒲生氏」
8月17日(日)、第22回(本年度第2回)の鶴千代クラブ学習会を開催しました。
今回のテーマは「日野鉄砲と蒲生氏」です。
講師は、日野町教育委員会の振角卓哉先生。
今までは、町内の山城や蒲生氏関連の史跡を案内して頂くことが多かったのですが、実は振角先生、日野鉄砲研究会にも数年前から所属し、文献調査などもされています。
講座は火縄銃の仕組みや鉄砲伝来説などの一般的な事柄から始まりました。
私たちが教科書で習った、ポルトガル人が種子島に伝えたという説だけでなく、中国や朝鮮からとか、東南アジアから伝わったなど、様々な説があることを知りました。
続いて、日野鉄砲の歴史について学びましたが、日野鉄砲に関する資料が少ない中、いろいろな文書から読みとれることをくわしく教えて頂きました。
天文年間(蒲生定秀が中野城を築き、城下町を整備した頃)に日野に鉄砲町という町名があったとか、永禄3年(1560年~氏郷が生まれてまもなくの頃)、南蛮船に乗っていた長子呂(ちょうしろ~中国人か?)が日野で鉄砲生産を開始した、などの興味深い話がありました。
その後、蒲生賢秀や氏郷も鉄砲を使用したと思われますが、その記録は残っていないようです。
ただ、氏郷の孫の忠郷が、日野の西田家から大筒・小筒を購入したり、預けた弾薬数を報告させたりしている記録があることから、江戸時代に入っても蒲生家とのつながりがあったことがわかるようです。
ただ、平和な時代になり、江戸時代中期には「100年前には鉄砲鍛冶は300軒いたが、現在は4軒」と文書にあり、ずいぶん廃れていたようです。そして、明治12年(1879年)、和田治太夫が廃業し、日野鉄砲の生産が終わりました。
日野鉄砲の歴史や特徴を学んだあと、会場を移動し、奥田秀顕彰会会長の鉄砲や鎧兜のコレクションを見学させて頂きました。
数多くの鉄砲のうち、半数以上が日野で生産されたものということです。
奥田会長から説明を受けたり、鉄砲を分解していろいろなパーツを見せてもらったりと、本物の鉄砲にふれることができました。
中でも、中筒を持たせてもらったときは、メンバー全員その重さに驚いていました。
構えるだけでも大変で、持っているだけでも精いっぱいという声も聞かれました。
振角先生も、資料などで学ぶことも大切だが、本物にふれることの大切さについて強調しておられました。
将来、鶴千代クラブのメンバーの中から、日野鉄砲研究会に参加してくれる子が出てくるかもしれませんね。
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