がもにゃん通信 第28号「氏郷、千利休(せんのりきゅう)の息子を会津にかくまう。」
織田信長・豊臣秀吉をはじめ、戦国武将たちは「茶の湯」を大変愛しました。戦いでつかれた心をしずめるためもあ りましたが、武将どうしの交流や、茶道具のやりとりなど を通した政治的なかけひきに茶道が利用されたという面もあるようです。
この時代、戦国武将たちと交流のあった茶人は多くいますが、中でも武将たちに対して大きな力を持っていたのが千利休です。
秀吉は、信長の死後、信長のやり方をまねて政治の重要な部分に茶の湯を取り入れました。
大きな茶会をもよおしたり、茶室など茶会が開ける場所をととのえたり、高価な茶道具を集めたりしました。
その秀吉のアドバイス役をしていたのが利休です。また、秀吉だけでなく多くの武将たちに茶の湯を教えてもいました。氏郷も利休の弟子です。
ところが、利休は突然に秀吉から切腹を命じられました。理由は「大(だい)徳(とく)寺(じ)の門に利休 の像がおかれ、その足の下をくぐるのかと、秀吉がおこった」「秀吉と利休の茶道に対する考え方が大きくちがってきた」など、いろいろ言われています。
氏郷は大切な茶道の先生を失ったことで、どのように考え、行動したのでしょう。そして、その後の「茶道」にどのような影響を与えたのでしょう。
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