鶴千代クラブ学習会 第12回「甲良・愛東の史跡を巡る」

7月30日(日)第12回目の鶴千代クラブ学習会を開催しました。今回は「甲良・愛東の史跡を巡る」です。夏休み中の小中学生、お母様お父様含め総勢14名に参加いただきました。とても暑い中、ありがとうございました。県外からは4月の総会で講演いただいた愛知県の井俣颯斗さん、三重県からは先日もテレビ番組「サンドウィッチマン&芦田愛菜の博士ちゃん」に出演された岩田周真さんが参加してくれました。


甲良町は、氏郷公と同年生まれの戦国武将、藤堂高虎の出生地であり、ほかにもバサラ大名と言われた佐々木(京極)道誉や中国地方の戦国大名尼子氏のゆかりの地として、たいへん興味深いところです。

愛東地区は、観音寺城を捨てた六角氏が信長に対抗するために籠り、賢秀・氏郷も参陣した戦いの行われたところです。


行程:道の駅せせらぎの里こうら ⇒ 在士八幡神社 ⇒ 藤堂高虎公銅像 ⇒ 甲良神社 ⇒ 尼子氏発祥の地 ⇒ 勝楽寺 ⇒ せせらぎの里で昼食 ⇒ 百済寺 ⇒ 鯰江城

藤堂高虎公銅像前で

百済寺本堂前の石垣で


甲良町の道の駅せせらぎの里に集合。甲良町観光協会の松原さんと若林さんにガイドいただきました。松原さん若林さん、ありがとうございました。


藤堂高虎公の娘 亀姫が蒲生氏郷公の孫の蒲生忠郷公の正室であったことから日野町とは縁があるということで快くガイドを引き受けていただきました。

甲良町観光協会 松原さん・若林さん


在士八幡神社は高虎公の8代前の先祖 藤堂影盛が応永年間(室町時代1394〜1428年)に京都の岩清水八幡宮を勧請(かんじょう:離れた場所にいる神や仏に対して、こちらへ来てくれるように祈り願うこと。)して建立したのが始まりとされています。

建立時に植えられた藤の木は開花時は房が1mにもなるそうです。毎年5月は「藤切り祭」が行われます。高虎公はこの地で生まれました。

築城の名手であり、主な築城に伊賀上野城、津城、宇和島城、今治城があります。大阪城、江戸城も修築しました。

在士八幡神社境内 藤の木がある

祭で使う太鼓が保管されている蔵

在士八幡神社 紫藤樹の云われについて

高虎公園

藤堂高虎公騎馬像 在士八幡神社の方角をゆび指しています。

大阪城に使われるはずだった残念石

高虎公騎馬像の前でポーズ!

高虎公園の標札 高虎公の生い立ち、活躍、公園・銅像の造築について説明

東門の滝


「藤堂高虎ふるさと館」にある「がまんの鬼」は朝鮮の役の時、高虎公が朝鮮から持ち帰ったものです。

三重県の津城に置かれていましたが、明治以降東京の乗連寺に移され、平成30年に15代目藤堂宗家から甲良町に寄贈されました。

高虎公が朝鮮から持ち帰った「がまんの鬼」

めぐりめぐって甲良町に。

藤堂高虎公の飛び出し君 ここでしか見られません。


甲良神社は天武天皇の代に高市皇子の生母尼子姫がこの地に住んでいたことから始まります。

ここの地名が尼子姫に由来すると云われています。出雲国島根県の尼子氏もこの地から守護代として移った一族です。

尼子氏発祥の地 甲良神社

ガイドの松原さんのお話によると、この神社の隅に「殺生石」という石があり、それに近づいた人は死んでしまうという言い伝えがあるとのことです。


その昔、栃木県那須高原に逃げた狐が殺されたときに峠の岩にその祟りが取りつき、その近くを通った人も動物も死んでしまうということがありました。困った村の人が玄翁禅師(げんのうぜんじ)に祟りを解いてもらうように頼みました。玄翁禅師が杖でその岩をたたき割ると石が日本全国に飛び散って南は大分県から北は福島県まで散らばりました。


全国の「高田」という地名はこの石が落ちた場所と云われています。石の一つが玄翁禅師が開いた鎌倉の海蔵寺に祀られ、今は京都の真如堂(真正極楽寺)に鎌倉地蔵という形で祀られています。
それら殺生石のかけらの一つが甲良神社の近くの玄翁堂に祀られていましたが、よくないことが起こり、甲良神社に移されました。
恐る恐るみんなで本殿の横にひっそりと安置されている殺生石を見ました。(祟りが移るといけないので写真は載せないでおきます。(;^_^A )

木造の狛犬が上に乗っています。

本殿 形が伊勢神宮に似ています。

甲良神社の創立と地名の由来

甲良神社からほど近くの住泉寺の隣に尼子氏発祥の地として整備されている土塁公園があります。

この城は1347年勝楽寺の前衛城として佐々木道誉の孫高秀の4男高久が築城しました。

高久の嫡男詮久(のりひさ)が近江尼子氏としてこの地を治め、次男持久が出雲国(島根県)を治めるようになりました。

尼子氏発祥の地 尼子城(館) 土塁公園


しかし、近江尼子氏はその後の戦乱でこの尼子城とともに歴史から消えて「まぼろしの尼子氏」と言われるようになりました。


平成8年の「むらづくり事業」で落城後650年余りもの間竹やぶで眠っていた尼子城が修復されました。今この地に尼子氏発祥の地がある歴史を改めて知ることができました。Google Mapでは「尼子氏発祥の地」で場所を調べることができます。

尼子城(館) 土塁跡


松原さんのお話の中で、源翁禅師の持っていた杖が、「かなづち」のような形をしていたので、「かなづち」の別名が「玄能(げんのう)」になったということです。

「げんのう」とは片方が平らで片方が丸い面になっているかなづちのことです。始め平らな面で釘をたたき、最後に丸い面でたたくと板を傷つけずに釘を打ち込めます。

松原さんがおうちから持ってきた本物の「げんのう」を見せてくれました。みなさんもホームセンターに行ったときに探してみてください。

玄翁堂


勝楽寺は近江源氏守護大名の佐々木道誉を開祖とします。裏山には勝楽寺城跡がありハイキングコースになっています。(この日は登りませんでした。)


道誉公は永仁4年(1296年)滋賀県米原市に生誕しました。南北朝動乱期に「ばさら大名」として勇名をはせました。

 ばさら大名:自由奔放で派手な格好を好み、武芸に優れ、能、狂言、茶道、花道、香道などの芸道にも優れた人」


平成3年の大河ドラマ「太平記」で陣内孝則が好演しています。特別に道誉公の像と重要文化財の大日如来坐像を見せていただきました。


勝楽寺山門 山門は織田信長の兵火をまぬがれて残った。

山門の六客脚切妻門に佐々木氏の平四ツ目家紋

勝楽寺をガイドしていただいた若林さん

道誉公坐像

重要文化財 大日如来坐像の収蔵庫

ありがたく拝ませていただきました。

ありがたく拝ませていただきました。

佐々木道誉公の墳墓

勝楽寺の縁起

ばさら大名と重要文化財

信長の兵火の際に大日如来像を隠した穴が泉になったというお話。

道の駅「せせらぎの里こうら」で昼食(ごめん、ほぼ食べ終わった後でした💦)


愛東町に移動。百済寺は湖東三山のひとつで紅葉の名所として有名です。

また、日本で2番目に古いお寺とされています。(3番目は奈良の法隆寺、1番目は奈良の向原寺:松原さんのお話。)


お寺と言いながら、歩いていると石垣と坊(お城で言う曲輪)が次々と現れ、さながら城塞の中を登っているようでした。

それは佐々木六角氏が自主防衛のために観音正寺と百済寺を石垣で城塞化するとともに鯰江城などの出城を築いていったからです。


百済寺について説明する若林先生

百済寺全体の地図 お城の広さです。

赤門

空堀跡

3百の坊=3百の曲輪?

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聖徳太子ゆかりのお寺でもあります。

当時の大伽藍を思わせる庭園


武田信玄の死を知った織田信長は六角征伐のため鯰江城に進軍しました。

百済寺は六角氏に味方し、鯰江城に食料を送り、寺に人々をかくまいました。信長はこれに怒り、百済寺を焼き討ちにします。その様は悲惨を極めたといわれます。


この焼き討ちで百済寺の大伽藍は修復不可能となりましたが、その後長い年月のうちに無数の残された坊跡は紅葉の名所へと変貌を遂げたのです。

信長公記の一節を紹介した標札

中腹からの眺め 琵琶湖まで見渡せます。

西暦606年に創建


氏郷公もまさにこの時代に精一杯生きたのでしょう。

お寺の中のはずですがもう「山城」と書いてあります。

ちょっときつかった階段

仁王門の大きなわらじ 触れると健康になると云います。

本堂にある百済寺の模型 

参道がまっすぐに伸びているさまが安土城に似ています。

秋は紅葉が楽しみです。

ツチアケビ

最後の鯰江城に移動。

鯰江城は日野城とは12kmほどの近い位置にあります。鯰江町の集落と重なっており、一部土塁や暗渠跡が残っています。1567年六角義弼(義治)により築城されました。その後織田信長の侵攻により1573年に落城しました。

昭和62年の発掘調査で城の規模、性格が判っています。生活排水路として暗渠排水路が発見されており、用水処理場にその一部が残されていました。

本丸跡

暗渠排水路跡


みなさん本当に暑い中、最後までよく頑張りました。楽しく史跡をめぐることができました。お母さんお父さん方もお子様のご興味にしっかりと応えておられる姿がとても素敵でした。また次の鶴千代クラブでお待ちしています。

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