第5回 氏郷公ウォーク開催『鎌掛城山屋敷と御代参街道を往く」
11月14日(日) 顕彰会主催の第5回 氏郷公ウォークを開催しました。 今年も52名もの多くの方にご参加いただけました。また、この機に8名の方に新規ご入会いただけました。今年も秋の好天に恵まれて絶好のウォーキング日和となりました。
今回は鎌掛の旧鎌掛小学校・八阪神社・鎌掛城山屋敷・正法寺・御代参街道をめぐるコースを散策。日野観光ボランティアガイドの川添さんと奥村さんの説明を聞きながら名所古刹への理解を深めることができました。 鎌掛公民館からスタート、旧鎌掛小学校へ。
鎌掛小学校は名誼小学校として明治7年(1874年)に開校され、明治20年(1887年)に尋常科鎌掛小学校と改名されました。2階建ての校舎は昭和5年3月に新築されたものです。児童数の減少により、平成12年度に日野小学校へ統合が決まり、平成13年(2001年)3月23日閉校式を挙行、126年の伝統に幕を閉じました。
昭和5年に建築された古い木造校舎が残り、その趣を当時のまま残していることから連続テレビ小説「スカーレット」のロケ地として使用されたり、京都アニメーション制作のテレビアニメ「中二病でも恋がしたい」のモデルにもなったことからファンの聖地になっています。
現在はNPO法人「蒲生野考現倶楽部(がもうのこうげんクラブ)」が「しゃくなが学校」として管理・運営されています。蒲生野考現倶楽部の方に校舎内をガイドいただきました。
八阪神社は拝殿の中に「正一位午頭天王(しょういちいごずてんのう)」と彫られた古額があるとおり、、明治8年(1875年)に八阪神社を改称する以前は疫病除けの神である午頭天王を祀る社であり祇園社と称していました。むかし鎌掛の東側の村は、一之瀬村と呼ばれており、その一之瀬村の鎮守社として鎌倉時代の頃に祀られたものと考えられています。もとは春日社が中心であった社ともいわれています。江戸時代に日野屋林蔵と伊勢屋徳兵衛という二人の商人が寄進した石灯籠があります。本殿前の御手洗川に半円形の太鼓橋が架っています。
鎌掛城は文亀2年(1502年)頃、蒲生秀行が砦を修築し、家臣の武村重綱を入れ守備させたと伝えられます。大永3年(1523年)蒲生家の後継者争いで蒲生秀紀が音羽城から鎌掛城へ退去、その後毒を盛られ自害した逸話が残ります。氏郷公の父賢秀公が天正12年(1585年)ここで死去したとされます。山屋敷には廃城後も蒲生家の家臣が居住したといわれ、土塁や堀切の遺構が残っています。
普門山正法寺は「藤の寺」として知られる臨済宗妙心寺派の禅寺です。境内には大日如来像や1315年に建立された石造宝塔(国指定重要文化財)、室町前期の作とされる十一面観世音菩薩像がある。ほかにも京都宮家の代参で駕籠に乗った中辻慎太郎が自害して葬られた墓や松尾芭蕉、山上荷亭などの句碑が3基建っています。
御代参街道 鎌掛は東海道土山宿と中山道愛知川宿を短距離で連結する御代参街道の宿場町として江戸時代から栄えていました。京都仙洞御所の皇族が伊勢神宮と多賀大社へ名代を派遣したことから、「御代参街道」という名がつきました。鎌掛宿は土山宿との間に笹尾峠という難路を控えていたので、枡屋、藤屋、銭屋などの一流旅館が軒を並べ、料理屋などの飲食店も多くありました。鎌掛宿は春日局や伊能忠敬などの江戸時代の有名人も宿泊しました。
ボランティアガイドの絶妙な時間配分で予定時間ちょうどに鎌掛公民館に戻ってきました。全行程約4km、無事氏郷公ウォークを終えることができました。次回もお楽しみに。
鎌掛公民館に集合。総勢50名参加してくれました。
当イベント企画の福永副会長の挨拶
長澤会長の挨拶
ボランティアガイドの山添さん。
ボランティアガイドの奥村さん。
旧鎌掛小学校校舎
旧鎌掛小学校正門
校長室 蒲生野考現倶楽部の方のガイド
趣のある廊下
体育館ホール
八坂神社 標札
八坂神社境内
八阪神社 境内
太鼓橋
鎌掛城案内板
山屋敷入り口
土塁跡
大手道
奥村さんのガイド。お城に詳しい方です。
正法寺
休山上山上
山上荷亭の句碑 「さまざまな 別れにあいぬ 露の秋」
松尾芭蕉の句碑 「観音の 甍見やりつ 花の雲」
中辻慎太郎の墓碑
御代参街道と日野中心街との分かれ道
0コメント